マニア垂涎!新島襄直筆の書が刻まれる石碑を見られる

新島襄海外渡航の地碑ほか、関連スポットまとめて紹介

新島襄(にいじまじょう)と聞いてすぐに誰だか判る人は、幕末ファンか学校の日本史をちゃんと勉強した人かのいずれかでしょう! 新島の名前を知らなくても「同志社大学」はご存じかと思いますが、この大学の創設者が新島襄です。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」でも主要人物として登場しています。主人公の八重の夫が新島襄だからです。オダギリジョーが演じていました。函館には新島襄に関連する石碑やモニュメントがあります。中でもマニア垂涎のひとつが「新島襄海外渡航の地碑」です。詳しくは本文をお読みください。

新島襄(にいじまじょう)(天保14年1月14日(1843年2月12日)〜 明治23年(1890年1月23日)
上州安中藩の藩士の長子として江戸藩邸にて生まれる。元服する頃よりアメリカに強い関心を持ち、1864年(元治元年)、アメリカ合衆国への渡航を計画し函館へ向かう。函館ではロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンの協力を得、旧暦6月14日(7月17日)米船ベルリン号での密航に成功する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えると、船長に可愛がられ、ジョーとあだ名されたことにより、帰国後「襄」に改名している。渡米後は、ワイルド・ローヴァー号の船主夫妻の面倒を受け、フィリップス・アカデミーという高校級のスクールを卒業。続けてアマースト大学を卒業。ここでは「少年よ大志を抱け」で有名なクラークの授業を受けている。クラークが北海道へ赴任したのも新島襄との縁による。1875年(明治8年)11月、宣教師として帰国。すぐにキリスト教主義大学の設立に奔走し、同志社大学の前身「同志社英学校」を開校した。翌年、学校開設の際に協力を得た山本覚馬の妹「八重」と結婚。1877年(明治10年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。1890年(明治23年)、かねてから患っていた心臓疾患による闘病中、急性腹膜炎により死去。享年48歳とかなり若かった。京都東山の墓の碑銘は勝海舟の書による。新島が他界してから30年後、大学令発布により、同志社は大学に昇格した。

新島襄海外渡航の地碑

かねてから英語を学ぶために渡米を画策していた新島は、吉田松陰の失敗から、幕府の監視が甘いと考えた函館に上陸。そこでハリストス正教会のニコライ主教や、イギリス商館の支配人だった福士成豊、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨らの協力を得、1864年(元治元年)6月14日に、当時の外国人居留地の岸壁から小舟に乗り、米船ベルリン号への密航に成功。その出発の地に記念碑が建てられています。建立費用は、函館市と同志社大学の折半である点が注目。また、碑文には新島が、1865年(元治2年)香港に於いて詠んだ直筆の漢詩が刻まれており、この手の歴史に傾倒している人にはヨダレものの記念碑といえるでしょう。なお、碑が建つ場所は交通往来のない場所で少々判りにくい。手前に看板は出ているものの、マップでしっかり位置を特定してから向かうことをお薦めします。

石碑の全景

台座の銘板。渡航時刻を「夜半」と記してる点がユニーク

新島襄ブロンズ像

新島襄は、1864年(元治元年)6月14日、函館港に停泊中の米船ベルリン号に密航し、当時禁止されていた海外渡航を果たします。その際、漁師に変装し小舟に乗って沖に出たことから、この像のモチーフとなっています。なお、この銅像は正式名称を、「記念撮影 未来への始まり‐海原‐」といい、街中アートの一環として、彫刻家峯田敏郎氏の作品として、2002年(平成14年)に建立されました。

【住所】函館市大町11
【電話】TEL:0138-27-3333/函館市元町観光案内所
【滞在目安時間】10分
【駐車場】専用はないが路駐可能

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